親を相対化するということ

東大生ブログ「東大みおりんのわーいわーい喫茶」

年末年始、少し久しぶりに実家に帰省した。

 

わたしは実家が東京から比較的近いこともあって、いつも2ヶ月スパンくらいで帰省しています。でも最近は両親が何度か東京に来て会っていたこともあり、8月ぶりの帰省に。

 

そしていつもは2,3日で東京に戻ることもあるんだけど、今回は10日間と長めのスケジュール。どうせ年末年始はインターン先などもおやすみだし、大学の試験勉強を実家でゆっくりやろう…と思っていました。

 

特に家族で遊びに行くわけではない。

いつもどおりの帰省。いつもどおりの実家。

 

と、思ってたけど。

今回の帰省は、なんか違った。

 

 

表現するのが難しいんですが、端的に言うと、「この家はもうわたしの家ではないんだな」と思いました。立ち寄るところ、数日滞在する場所ではあるけれど、わたしの住まいではない。

 

両親との関係が悪くなった、とかいうのではありません。でも、違和感がすごく強くなってしまった。「実家の文化」と、「わたしの文化」が違ってしまった、という感覚です。

 

実家はわたしが20年近く育った家です。ごはんの食べ方、家事のやり方、ごみの分け方、、ありとあらゆる生活の慣習は両親に教わったものです。お行儀が悪いというのはどういうことで、人にやってはいけないことは何なのか、そうしたことのほとんども家で学んだものでした。

だから、当たり前だけどわたしは実家の習慣が世の中の常識だと思っていた。もちろん多少のずれはあるだろうと思っていたけれど、基本的には実家でいいとされたことは世間的にもいいことで、実家でだめだと教わったことは世間的にもだめなことなんだと信じていました。

逆に言うと、わたしが外で生活するなかで「これはやっちゃだめでしょ」と思うことは両親はしないことだった、ということでもあります。たとえばわたしは歩きタバコをする人が苦手なのですが、もし父や母が歩きタバコを平気でする人だったとしたら、わたしも街中でそうした人を見かけてもそれほど何も思わなかったのではないかと思います。(まあうちは両親ともにそもそもタバコを吸わないのですが😥)

 

でもね。離れてみると、そういうのって幻想だったんだなと気づきました。

最近わたしは彼氏の食事のマナーがすごく気になってしまっていて、なんでこの人は何度言ってもお皿に左手を添えないのかなぁとかなんで肘をついて食べちゃうのかなぁとか思っていました。だけど、帰省したら父も同じ食べ方だった。考えてみればそういうマナーのことをしつこく言ってくれていたのは母のほうで、父は昔から、わたしたちにしてみれば「それはやっちゃだめな」食べ方だったんだよね。

それから帰省の最終日には両親とわたしの3人で映画を観に行ったのですが、エンドロールが始まってしばらくすると、母がなにかバッグの中を探すためにスマホの懐中電灯をつけた。ライトは下向きだったけど、まだ暗い映画館で懐中電灯機能を使うっていうのは、わたしの感覚では「やっちゃだめじゃないかな?」と思うことでした。

 

10日間もいるとこういう微妙なずれや違和感がたくさん出てきて(きっと両親もわたしに対してそうだっただろう)、じゃあわたしの「常識」ってどこから来たんだろうと思いました。

たぶん、わたしの常識っていうのは、根本的には実家で両親によって形作られて、ひとり立ちしていくと同時に周囲の人たちからの影響を受けて日々変化しているのでしょう。当たり前のことだけど、なんだか寂しいような、面白いような、変な気持ちがしました。

 

小さい頃は、無条件に無意識に、「親が絶対の存在だ」と誰もが思うと思います。べつに親が権力をふりかざしているっていうことじゃなくて、子どもは親の言っていること・やっていることは無条件に正しいと考えるという意味です。

おとなになってからも、やっぱり無意識に「親は正しい」と思い込もうとするんだと思う。だって育ててくれたのは親だし、その親を「間違っている」と思うのは難しい。自分を否定することにもなる気がして。

 

でも、やっぱり、親は絶対的なものではなかった。

 

親だってだめなところがあるし、わたしにしてみれば「非常識な」瞬間があるし、言っていることとやっていることが違うことがある。親よりも周りの他人のほうが正しいなと思うときだってある。

 

わたしはいわば、親を相対化していくという段階にいるのだと思います。「相対化」という考え方は、この間弟から学びました。

 

そうやってわたしはおとなになっていくのかな。

そしていつか、子どもを持って、子どもにとって絶対的な存在となって、やがて相対化されていくのかな。

 



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